「自分のために」努力をする人と、「人のために」努力する人。
一般的に考えれば、後者の方が「より、高尚な、人間のできた人」と判断できると思います。
しかし、私はある時期から、「人のために」努力する人は、本当に「人のため」なのか?と言う疑問を持つようになったのです。
「人のために」行動するのは、
「自分が」人のためになりたいからではないか。
「自分が」人の喜ぶ顔を見たいからではないか。
「自分が」人を助けたいからではないか。
「自分がそうしたいから」人のためになろうとするんじゃないか。
だとしたら、それは結局「自分のため」じゃないか。
どんな行動も、「自分のため」じゃないか。
そう思ってから、
「あなたのために、○○したのに。」というセリフ、恥ずかしくて吐けなくなった。
「生徒に良かれと思って、○○しました。」なんてセリフ、とてもじゃないけど吐けなくなった。
「あなたが喜んでくれたら私が嬉しいから、○○したの。」
「生徒が成長してくれたら私の喜びになるので、○○したんです。」
こう言って、「人のせいにせず、自分で責任を負うこと」を心がけるようになった。
どんなことをしても自分の責任なら、自分が本当に嬉しいことをしよう。
自分だけで喜ぶよりも、周りの人にも喜んでもらえたら嬉しいから、
一緒に喜べることをしよう。
みんなが喜んだ方が自分が嬉しいから、みんなの事も考えよう。
「自分を幸せにすること」
「自分の周りを幸せにすること」
をなくして、
「世界の幸せ」はありえない。
「近視的な見方」だ、と言われるかもしれないけど、
よく見えていないことでは、近くを無視した「遠視的な見方」だって同じ。
近くも遠くも見ながら、「自分のために、人の幸せの助けになれる人」
そんな人間になれるなら、私の人生に宗教はいらない。
そんな人間にしてくれるなら、どんな宗教でも受け入れたい。