幼い頃、私が教会通いをしていたのは前述の通りです。
そこで、「一心に祈ること」の気持ちよさは知っているつもりです。
私の場合は、ミサそのものよりも、その後に一人で十字架に向かって跪き、
心の中でお祈りの言葉を唱えながら、だんだんと無心になっていく瞬間が大好きでした。
そして、心ゆくまで祈った後は、晴れやかで優しい気持ちになり、
(幼いながらも)迷っていたり、悩んでいたことが軽減したような気持ちになりました。
要するに、「祈る」ことで、粟立っていた心が、落ち着くわけですね。
実際は、その時点では事態は何も変わっていないのですが、心の持ちようが変わるわけです。
そうすると、物事に臨む姿勢が変化して、その後の事態に変化をもたらすこともあり、
これは一種の「お祈りの効果」だなぁ、と感じたことがあります。
私は学会員の方の「唱題」とか「勤行」ってものを正確には知らないので、
あくまでも想像ですが、
「無心になって祈る(題目を唱える)」ことで、心の持ちようを変えることは、
決して悪いことではないと思います。
ここで私が言いたいことは、「心の持ちようを変えること」は、
他の宗教でも、もしくは全く別の他の方法でもできる、ということです。
私は、「キリスト教」が絶対のものではない、と感じるようになってからは、
無心になりたい、集中したい、と思うときには「黙想」をするようにしました。
もしかしたら、ヨーガとか、座禅とかもいいかもしれません。
究極、円周率の数字を、気が遠くなるまで読み続ける、とかでもいいかもしれません。
感覚をとぎすまし、心を見据えるのは、祈りでなくてもイイと思う。
その人に一番あった(でも他人には迷惑をかけない)方法で、
「心の持ちよう」を変えればイイだけのことだと思う。
「お祈り」でもいい。
「お題目」でもいい。
「円周率」でもいい。
自分に合う方法が、他の人に合うとは限らない。
他の人に合う方法が、自分に合うとも限らない。
思いこみの激しい自分が、いつもこれを意識するのは難しいけれど。
自分で考えながら、自分に合う方法を見つけていきたいと思います。
いろいろな人に、意見を聞きながら。